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零式艦上戦闘機 52型 丙 (A6M5c)       第302航空隊   昭和19年7月改造開始/同10月採用
零式艦上戦闘機52型丙
(中島) 栄21型発動機 全備重量3150kg 最高速度541km 上昇時間9分57秒/8000m 実用上昇限度11050m
コ・アップ ガラナ
零式艦上戦闘機 52型丙(A6M5c) 第302航空隊
零式艦上戦闘機二一型 [A6M2b]
開戦劈頭、真珠湾に突入したのがこの機体です。あまりにも有名な戦闘機なので地味なお話を。
海軍が十二試艦戦の計画要求書案を三菱と中島に内示したのが昭和12年5月。ついで同10月に正式な十二試艦戦計画要求書が両社に交付される。しかし、翌13年に中島が開発を辞退したため、その後は三菱一社での開発となった。十二試艦戦/A6M1の1号機は昭和14年3月に完成し、続く2号機とともに実用試験が開始された。よく知られている、実用試験中に空中分解した機体はこの2号機である。2号機は昭和14年10月に初飛行し、同11月24日に海軍に引き渡された。そして事故が昭和15年3月11日に発生する。この日、2号機は横須賀での実用試験中に昇降舵のマスバランスが破壊され、空中分解し海上に墜落したのである。
十二試艦戦は昭和15年7月に零式艦上戦闘機一一型として正式採用され、同12月に二一型に変更される。変更理由は空母エレベーターのクリアランスを確保するためであり、主翼両端を50cmずつ折りたためるように改造したのが二一型である。零戦の生産は中島でも行われたが、三菱での生産は一一型/A6M2a=64機、二一型/A6M2b=740機だった。
【実機データー】
全幅12.00m  全長9.05m  全高3.525m  自重1745kg  全備2421kg  発動機(中島)栄一二型 空冷星型複列14気筒940hp 最高速度533km/h
航続距離3350km/増槽使用  実用上昇限度10300m  火器 7.7mm機銃×2  20mm機銃×2(弾数60)  60kg爆弾2発 乗員1名
 零式艦上戦闘機五二型 [A6M5] デビューが鮮烈なほど終焉は美しい。
零戦は大和とともに大日本帝国の象徴であり、日本人の美学でした。十二試艦戦から六四型(五四型丙)まで、およそ10400機にのぼる零戦の総生産機数において、その6割にあたる約6000機が五二型です。まさに『五二型』=『ゼロ戦』といっていいでしょう。
 しかし、本来の零戦の完結形は二二型です。零戦は時代とともに変遷し、五二型以降は局地戦闘機へと変貌を遂げました。もっとも、五二型が登場した昭和18年8月といえば、すでに侵攻作戦などなく、基地周辺の迎撃戦が中心でした。ちなみに昭和18年といえば、4月に山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島上空で戦死、続く5月にアッツ島の日本軍守備隊が玉砕。同7月、キスカ島から陸海軍守備隊が撤退し(奇跡のケ号作戦)、9月にはイタリア降伏、11月、マキン、タラワに米軍が上陸し日本軍守備隊玉砕。そんな時勢に登場したのが零戦五二型/A6M5でした。
【連合艦隊司令長官山本五十六 ソロモンに死す】


山本長官がラバウルに進駐したのは、い号作戦の陣頭指揮をするためである。同時に最前線の将兵を激励する目的もあった。山本の性格から考えれば、後者に重きがあったのではないだろうか。


「い」号作戦は、ラバウルを拠点にソロモン海域の制空権を米軍から奪回するための航空作戦である。
4月 7日 九九艦爆67機、零戦157機による、ガダルカナル泊地の敵艦船攻撃。 (い号作戦の開始)
4月11日 九九艦爆21機、零戦72機による、ニューギニア・オロ湾の輸送船群の攻撃。
4月12日 一式陸攻44機、零戦131機による、ポートモレスビー航空基地空襲。
4月14日 一式陸攻37機、九九艦爆23機、零戦131機による、ニューギニア・ミルン湾の輸送船群の攻撃。
4月16日 東部ニューギニア方面の艦戦への攻撃が予定されていたが、偵察機からの「船影ナシ」の報告により中止。同日、い
      号作戦の終結を宣する


 その「い号」作戦遂行中の昭和18年4月13日の夕刻、一通の暗号電報がラバウルから各基地に向けて発せられた。
 長官 四月十八日「バラレ」「ショートランド」「ブイン」実視セラル
 〇六〇〇 中攻ニテ ラバウル発   〇八〇〇 バラレ着   直チニ駆潜艇ニテ 〇八四〇 ショートランド着
 〇九四五 ショートランド発   一〇三〇 バラレ着   一一〇〇 中攻ニテ バラレ発
 一一二〇 ブイン着   一四〇〇 中攻ニテ ブイン発   一五四〇 ラバウル着
 天候不良ノ際ワ 一日延期

つまり、山本長官が4月18日にブイン、ショートランド方面を視察する旨を、各基地宛てに発した電報である。しかし、受信したのは日本軍だけではなかった。アリューシャン列島ウナラスカ島ダッチハーバーにある、アメリカ海軍無線傍受所もリアルタイムで受信した。この暗号電報はただちにハワイ・真珠湾を経由してワシントン海軍省に転送され、海軍情報部次長ザカリアス大佐からフランク・ノックス海軍長官に報告されたのである。


ノックスが傍受電を受け取ったのは4月15日。しかし、それより一足先にこの傍受電を受け取った男がいた。米太平洋艦隊司令長官チェスター・W・ニミッツ大将である。ニミッツはこの傍受電を情報将校のエドウィン・レイトン中佐から、14日に受け取ったのだ。彼はただちに南太平洋方面艦隊指揮官ウィリアム・F・ハルゼー中将に山本機襲撃を命じる。ハルゼーは作戦の成否をガダルカナル島ヘンダーソン基地に打診。折り返しソロモン方面航空部隊司令官マーク・ミッチャー少将が、『実行可』の返信をすると、ハルゼーはニミッツからの『山本機襲撃』の命令を伝えた。一方のノックスもルーズヴェルト大統領、陸軍航空隊ヘンリー・H・アーノルド大将などと会談し、ハルゼーとは別に海軍長官名でヘンダーソン基地に山本機襲撃を命じたのであった。


ヘンダーソン基地では陸海軍および海兵隊の各指揮官が招集され、作戦が練られた。実行部隊の指揮官には、ニミッツが陸軍第339戦闘飛行隊のジョン・W・ミッチェル少佐を指名。作戦はブーゲンヴィル島ブイン上空で山本長官機を捕捉、撃墜することに決まった。使用機はP38ライトニング戦闘機16機+予備機2。パイロットは各部隊から選りすぐった精鋭である。襲撃部隊がプランを練り上げている時、18機のP38は夜を徹しての準備が続けられていた。今回の作戦にP38が選ばれたのは、航続距離が長いという理由からだが、リスクを考えれば一分でも航続距離を延ばしたい。そこで、1200リットルと650リットルの増槽を主翼下面に取り付け、洋上航法装置のない陸軍機に羅針盤を装備するなどの改造が行われていたのだ。


運命の4月18日、2機の一式陸攻と、6機の直掩戦闘機は予定通りラバウル基地を飛び立った。一番機山本長官、二番機は宇垣参謀長である。ヘンダーソン飛行場ではそれより35分前にP38が発進していた。ミッチェル隊は18機のうち、離陸直前に1機がタイヤパンクで離陸不能になり、もう1機が離陸後に燃料トラブルで脱落した。計16機となった以外は、米側の計画通りに事は運んで行く。




山本長官一行がラバウルを離陸して1時間30分ほど経った頃、突如、頭上から米軍機が襲いかかってきた。ミッチェル隊が長官機を捕捉したのである。空中戦では負けることのない技量を持つベテラン搭乗員であっても、わずか6機で2機の中攻を守りきるのは不可能である。やがて長官機は黒煙を吐きながらジャングルに墜落し、一番機は全員戦死する。続く二番機は炎に包まれたものの、モイラ岬沖の海上に不時着し、宇垣参謀長ほか二名が救出された。バラレまで残りわずか15分ほどの距離だった。


山本長官の遺骨は昭和18年5月21日、戦艦武蔵によって東京に帰ってきた。大本営は同日午後3時、山本長官の戦死を発表。同年6月5日、東京日比谷公園内斎場にて国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政。参列者1500人。一般市民は数万人が参拝したと記録されている。直掩零戦隊の6人のうち、戦後まで生き残ったのは、戦闘で右手首を失って内地に後送された1名だけである。米側のミッチェル少佐と隊員たちは一階級昇進し、海軍十字章を受けて英雄となった。


山本長官機撃墜は、はたして軍事作戦だったのだろうか。それとも米国人の私怨だったのか。
ニミッツはこの長官機襲撃を『復讐作戦』と名付けている。
零式艦上戦闘機 五二型
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中島 二式水上戦闘機 [A6M2-N]
陸上基地のない辺地や孤島で、船団の護衛や防空を担ったのが水上戦闘機だ。本機は零戦一一型をベースに開発から11ヵ月で初飛行し、昭和17年7月に正式採用。もともと十五試水戦「強風」が実用化されるまでのピンチヒッターとして登場した二式水戦だったが、同時期のスピットファイヤーやF4Fなどの水上機型がことごとく失敗に終わったことを見れば、下駄ばき零戦と呼ばれた本機がいかに優秀であったかが分かる。
【諸元】
全幅 12.00m 全長 10.131m 全高 4.305m 主フロート長 7.495m
自重 1921kg 全備 2460kg
発動機 中島[栄一二型]空冷星型複列14気筒 940hp
最高速度436km/h 航続距離1778km 実用上昇限度9760m
火器 7.7mm機銃×2  20mm機銃×2(弾数60) 60kg爆弾2発 乗員1名
初飛行 昭和16年12月/採用 昭和17年7月
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