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帝国陸軍  九七式中戦車 チハ
戦車第1連隊 第3中隊      昭和16年12月8日 マレー進攻作戦時
帝国陸軍  九七式中戦車 チハ 南部十四年式自動拳銃
チハ & 改
【芸術品】
海軍は真珠湾攻撃において航空機の可能性を証明し、世界に大艦巨砲時代の終焉を知らしめました。かたや陸軍は昭和14年のノモンハン事件で、ソ連のBT戦車相手に対戦車戦を経験したにもかかわらず、『戦車の任務は歩兵支援』という用兵思想を変えることができませんでした。その後、ソ連は重武装、重装甲、高速型戦車の開発を進めましたが、帝国陸軍はついに四式中戦車を実戦配備することができませんでした。
チハ車は当時の世界水準からみれば非常に優れた戦車でした。デザインもドイツやアメリカ、ヨーロッパの戦車と比べると、非常に繊細なフォルムを持ち、女性的な優美さを感じます。しかし、道具は誤った使い方をすると本来の力を発揮できないばかりか、理不尽な評価に甘んじることになります。上司がバカだとやがては部下もバカになるということですね・・・ちょっと違うか
帝国陸軍  九七式中戦車改
帝国陸軍  九七式中戦車改
帝国陸軍  九七式中戦車改
九七式中戦車は大東亜戦争緒戦から終戦まで、全戦域で戦った日本を代表する戦車である。「チハ」とは試作段階での名称であり、チは中戦車を表す「チ」、ハはイロハの3番目で第3案という意味だ。八九式中戦車の後継として昭和11年7月から開発が始められ、昭和12年に試作車が完成した。時あたかも日中戦争へと突き進む時代の中で、チハ車は九七式中戦車として陸軍に制式採用されたのである。


エンジンは三菱重工業がスイス・ザウラー社との技術提携によって完成したV型12気筒21,720cc、直接噴射燃焼方式の戦車用空冷ディーゼルエンジンを搭載し、出力170ps/2000rpm、最大トルク77kgf・mを発生する。従来のガソリンエンジンの欠点である燃費の悪さと、被弾や事故などによる爆発や火災の危険性を防止するとともに、空冷方式による優れたメンテナンス性と、熱帯から寒冷地まで行動地域を選ばない傑作エンジンである。変速機は高低二段切り替え付きの前進四段後進一段で、操向機は遊星歯車装置併用のクラッチ&ブレーキ式。航続距離210km、トップスピード38km/hを出す。本来のトップスピードは42km/hだが、転輪ゴム部分の発熱を抑えるため38km/hに設定されていた。主砲は砲身長18.4口径の九七式57mm戦車砲。砲弾はアルミニューム合金の弾薬箱4箱と砲塔側板の弾薬箱に分割して、114発を収納する。弾種は榴弾と徹甲弾があるが、あくまでも歩兵支援用戦車であり、対戦車戦闘は念頭になかった。副兵装は九七式車載重機関銃2挺。携行弾数は4,035発。装甲は砲塔前面・側面・後面が各々25mm、上面10mm。車体部は前面25mm、側面20mm、後面20mm、上面10mm、底面8mm。乗員は4名で戦車長・砲手・操縦手・前方銃手で構成される。生産は三菱重工業、日立製作所、相模造兵廠などで行われ、総生産数は2,123輛である。


新型戦車のデビュー
九七式中戦車が初めて戦場に登場したのが、昭和14年7月のノモンハン事件である。この時出動したのは安岡支隊の第一戦車団で、第三、第四、第五の3個戦車連隊で編成されていた。第三及び第五連隊が中戦車を主力とし、第四連隊は九五式軽戦車を主力とする部隊であった。実際に戦闘に参加したのは第三、第四の2個戦車連隊だが、その第三連隊に装備更新による新型九七式中戦車が到着していた。しかし、この時点において新型戦車はまだ練成未済であったため、出撃には使い慣れた八九式中戦車が選ばれた。その結果、戦場に登場した九七式中戦車は、連隊長である吉丸清武大佐の「忠節号」を含む4輛だけだった。


いきなりソ連のBT戦車と戦車戦をすることになった九七式中戦車の初陣は惨憺たるものだった。主力の戦車第三連隊はソ連のBT戦車2輛と装甲車10輛、火砲12門を撃破したものの、味方の損害も大きく、九七式中戦車1輛、八九式中戦車10輛、軽装甲車6輛を失う結果となった。連隊長吉丸大佐もこの戦闘でソ連軍の集中砲火を浴び、壮烈な戦死を遂げたのである。ノモンハンでの対ソ戦は、今後の戦車運用における軍部への警鐘となった。しかし、実際には何の対策も講じられることなく、日本は連合国との戦いに突入していったのである。


ところがその緒戦において九七式中戦車は大戦果を上げてしまった。それがマレー進攻作戦だ。この作戦ではチハ車本来の歩兵直協能力をいかんなく発揮し、第三戦車団所属の戦車第一連隊と、戦車第六連隊の九七式中戦車がシンガポール攻略に大きな戦果を上げたのである。しかし、この功績は九七式中戦車の対戦車戦における問題点を置き去りにしてしまった。その結果、やがて現れるM4シャーマン中戦車の前に悲劇が繰り返されることになったのである。


九七式中戦車は歩兵支援を目的として昭和11年に開発された。当時は用兵思想の転換期であり、軍部が冷静な情勢判断をしていれば、大東亜戦争における戦車戦の様相は違ったものになっていただろう。しかし、伝統を打ち破ることができなかった陸軍は、結局、八九式中戦車と同種の歩兵支援用戦車でM4に向かっていったのである。もっとも海軍の思考も陸軍のそれと大差なかったことは近代史をみればよく分かる。


九七式中戦車が支援戦車として、世界のトップレベルにあったことは事実である。しかし、対戦車戦においてはアメリカのM3軽戦車にさえ捨て身で挑まなければならないほど非力であり、やがて登場するM4シャーマンに対しては破滅的な戦いを強いられた。それを打開すべく、急遽新砲塔に換装した九七式中戦車「改」が前線に送り出されたものの、到底M4戦車の敵になるべくもなく、戦車兵は絶望的な戦いに挑んでいったのである。そういった状況から、軍部は対戦車戦を目的とした新型戦車をようやく誕生させるものの、物資不足による生産能力の低下はいかんともし難く、戦局を変えるまでには至らなかった。しかし、例え十分な台数を生産できたとしても、既に制空海権を持たない帝国海軍に、新型戦車を前線に送り届けることは不可能であった。


最後の戦い
昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し終戦を迎える。その詔勅がおりた3日後の8月18日早暁、ソ連軍が北千島占守島(Shumshu)に突如上陸を開始した。これに対し、同島守備隊は国籍不明の敵に対する止むを得ない自衛行動として戦闘せざるを得なくなり、多くの犠牲を出しながらも正体不明の侵略軍(ソ連)を押し戻したのである。この時の池田末男大佐指揮の戦車第11連隊の死闘は、その後のソ連南下政策を阻止したと言っても過言ではなく、またこれが九七式中戦車の最後の戦いとなったのである。


この事件は現在の義務教育では決して教わることのない歴史の事実であり、我々が知らなければならない近代史である。
歩兵支援を目的として設計された九七式中戦車は、主砲に九七式57ミリ短砲身戦車砲を装備し、九七式7.7mm車載重機関銃2挺、最大装甲25mmというものであり、対戦車戦は想定していなかった。そのため戦局の進展につれて登場した、連合軍のM4中戦車には太刀打ちできず、急遽、主砲を一式47mm戦車砲に換装して登場したのが九七式中戦車改である。


主砲の変更とともに砲塔も大型化され、最大長193cm、最大幅142cmとなった。一式47mm戦車砲は、一式対戦車砲を改造して車載砲としたもので、口径47mm、初速810m/secと飛躍的に性能アップしたものの、M4戦車に対抗できるまでには至らなかった。しかし、工業生産力の低下が著しい日本で、三式中戦車、四式中戦車を大量生産する力はすでになく、九七式中戦車は終戦まで第一線で戦わなければならない運命を負わされたのである。




九七式中戦車改の初陣は、昭和17年5月5日のコレヒドール要塞攻略戦であった。当時旧式の八九式中戦車で苦戦を強いられていた戦車第七連隊の救援として実戦配備されたのである。


エンジン  V型12気筒 空冷ディーゼルエンジン/170馬力
懸架装置  第1・第6転輪を独立式。中央部4輪をつる巻バネ特許式 (シーソー式連動懸架)
主 武 装  一式47mm戦車砲 (口径47mm・砲身長48口径・初速810m/sec)
副 兵 装  九七式車載重機関銃二挺
九七式中戦車[チハ]
戦艦大和と零戦が帝国海軍の象徴であれば、帝国陸軍の象徴は隼と九七式中戦車だ。陸軍が八九式中戦車にかわる、新型戦車構想を打ち出したのは昭和11年(1936年)のことである。同年7月22日、陸軍技術本部の軍需審議会において、新型歩兵支援用主力戦車の研究開発が審議入りし、最終的に二案が残った。第一案は57mm戦車砲を搭載し、攻撃力、防御力を向上した強化型で名称はチハ。第二案は第一案と同じ戦車砲を搭載するものの、乗員を一名減とし、車載機銃も廃した軽量型で、名称はチニだった。第一案を三菱重工業、第二案を大阪工廠が担当し、昭和12年に試作車が完成する。比較試験の結果は両車とも要求性能を十分に満たすものだったが、戦闘力を重視する部隊側と、数量確保のため調達価格を優先する軍政当局との間で意見が対立してしまう。それをひとつにまとめたのが、同年7月7日に勃発した日華事変だった。これにより軍の予算枠が外され、価格に難色を示していた参謀本部が「チハ」採用に同意したのである。
97式中戦車 改
新砲塔 タミヤ
増加装甲型
ファインモールド
日本の戦車は全般に電気系統が弱かった。60〜70年代の国産自動車も電気系統が弱かったから、これは日本の伝統かもしれない。中でも神経を使うのは九七式中戦車で、そのエンジン始動は職人技だったとの証言も残っている。では、始動をミスった時はどうしたかというと、国内では牽引車で牽引しての押し懸け、戦地ではエンジン始動に成功した戦車で牽引しての押し懸けが多かったそうだ。
・・・ しかし、単独行動中に、朝、エンジン始動に失敗したら15万円(当時の値段)もする戦車を放棄するのだろうか?
【実車データー】    V型12気筒 4ストローク空冷式ディーゼル   出力170HP   最大速度38km/h   最大航続距離210km
武装=18.4口径  57mm九七式戦車砲1(114発)  九七式7.7mm車載重機関銃×2(4,035発)   装甲=車体前面25mm   砲塔前面25mm
側面25mm   後面25mm   上面10mm   乗員4名   全長5.55m   全幅2.33m   全高2.23m   全備重量14.3t
九七式中戦車[改]
九五式軽戦車
昭和8年、日本陸軍初の機動戦車として開発に着手し、翌昭和9年末に三菱重工業で試作車が完成する。昭和10年に制式化され、昭和18年までに2,375輌が生産された。九四式37mm戦車砲を搭載し、最大速度40km/hの機動力を持つものの、最大装甲厚が12mmしかなかったため、対戦車戦においては絶対的な劣勢を強いられた。直列6気筒空冷式ディーゼルエンジンを搭載し、120HP/1800rpmを出し、最大航続距離は240kmだった。
九五式軽戦車 [ハ号]  ファインモールド
   
九五式軽戦車の兄弟とも言えるのが特二式内火艇だ。三菱重工業が中心になり、九五式軽戦車をベースに開発された水陸両用戦車である。昭和17年に特二式内火艇(カミ)として制式採用される。九五式軽戦車がベースとはいえ単なる改造型ではなく、それをベースに新たに開発したものである。米軍のLVTと異なるのは、孤立した守備隊の援護や救出のため、米上陸部隊の背後に強行逆上陸するためのものであった。作戦としては潜水艦で島に接近し、揚陸ポイントで浮上したら、30分以内にエンジンを装着し発進、島に強行上陸して米軍を急襲し殲滅するというものである。これはカミ車がサイズ的に潜水艦艦内への格納ができないため、車体を甲板上に固定し、エンジンのみを艦内に収納して輸送するという方式をとった。
生産数は昭和20年まで184輌。
三式中戦車 [チヌ]

「陸軍の主役は歩兵であり、戦車の任務は歩兵の支援である」、という帝国陸軍の用兵思想は、戦場にM4シャーマンが現れた瞬間夢とついえた。ドイツ軍戦車相手に辛酸を嘗めた連合軍が、今対峙しているのは帝国陸軍の戦車である。M4にとって、歩兵支援を目的とした帝国陸軍機械化部隊は、対戦車戦闘を目的としたドイツ軍戦車と比べれば造作なく撃破できる相手である。チハ車がM4を破壊する方法は、肉迫してのゼロ距離射撃だけだった。

そんな状況下で次期主力戦車が登場するまでのつなぎとして、また、M4と互角に戦える戦車として登場したのが三式中戦車だった。最大の課題である開発時間の短縮のため、一式中戦車の車体に九〇式野砲を搭載するという方法で終戦までに60両を完成させた。しかし、その完成車を外地に送る手段も既になく、すべて本土決戦用として国内に配備されたのである。一説では総生産数166両ともいわれているが、結局は戦うことなく終戦を迎えた。三式中戦車のベースとなった一式中戦車は九七式中戦車の改良発展型であり、そこに野砲を無理やり載せた結果、戦車として多くの問題を抱えたままの部隊配備となった。しかし、当時すでに徹甲弾の品質保持すらままならない日本の状況で、三式中戦車はM4と互角に戦うことができたのだろうか。
【実車データ】  1944年5月開発開始  同年10月試作1号車完成  同年12月製造開始  全長5.73m  全幅2.33m  全長2.61m  最低地上高0.4m  全備重量18.8t  統制型一〇〇式空冷V型12気筒ディーゼル  最大速度38.8km(路上)  出力240HP  最大航続距離210km  燃料330リットル  乗員5名  武装 38口径三式75mm戦車砲×1(70発)  九七式7.7mm車載重機関銃×1(3,670発)  装甲 車体前面50mm  砲塔前面50mm  同側面25mm  同後面25mm  同上面10mm 三式中戦車
F モールド
九七式軽装甲車 [テケ]
九七式軽装甲車は九四式軽装甲車の発展強化型であり、もともと前線の部隊に弾薬を運ぶために開発された特殊装甲牽引車が九四式装甲牽引車である。しかし、この牽引車が戦車部隊の補助車両や、歩兵用の装甲車として有効と判断した陸軍が、改めて九四式軽装甲車の名称で制式採用したのだ。牽引車とはいえ戦闘地域で行動する車両なので、九七式7.7mm車載重機関銃一挺を装備している。この軽装甲車が日華事変で予想外の活躍をした。
それにより九四式軽装甲車の有効性を再確認した陸軍は、戦闘力を向上した後継車の開発に着手し、1937年に二種類の試作車を完成させる。その後、九七式軽装甲車として制式採用し、1939年から1942年まで池貝自動車(現小松製作所川崎工場)で約570両が生産された。九七式軽装甲車は九四式の後継とはいえ、九四式のガソリンエンジンからディーゼルエンジンに変更されるなど、まったく新しい車両といってもいいだろう。武装は九四式と同じ九七式車載7.7mm重機関銃搭載型と、九四式37mm戦車砲搭載型がある。九四式37mm戦車砲は距離300mで厚さ25mmの均質圧延鋼板を貫通し、九七式車載7.7mm重機関銃は、距離100mで厚さ20mmの均質圧延鋼板を貫通した。
【九七式軽装甲車37mm戦車砲搭載型】 〔 〕は機関銃搭載型
全長3.70m 全幅1.90m 全高1.79m 全備重量4.8t〔4.5t〕 OHV直列4気筒空冷式ディーゼル
最大出力65hp/2,300rpm 最大速度40km/h 航続距離250km 武装 九四式37口径37mm戦車砲×1(102発)〔九七式車載7.7mm重機関銃×1(2,800発)〕 装甲 車体/前面12mm 側面10mm 上面6mm 後面8mm 床面4mm 砲塔/前面12mm 側面10mm 上面6mm 後面10mm 乗員2名
九七式軽装甲車
ファインモールド

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九七式中戦車(チハ)の車体に、75mm野砲を搭載した自走砲が一式砲戦車だ。昭和18年から終戦までに約140輌が生産され、戦車師団の機動砲兵連隊に配備された。フィリピンなどの前線に到着した数はわずかだったが、米軍からは「あらゆる米軍戦車を撃破可能な、唯一の日本軍車輌」と評された。

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